風流船揃
安政三年(1856)二月

作曲 二代目 杵屋勝三郎
〈本調子〉 
そもそも船の始まりは 唐土皇帝に仕へし 貨狄といへる臣下あり 
秋吹く風に庭の池へ 散り浮く柳の一と葉の上に 蜘蛛の乗りてささがにの 糸引きはへし姿より 
匠み出だせし船とかや 
見渡せば 海原遠く真帆片帆 行きかふ船の数々は 霞の浦に見え隠れ 白波寄する磯近く 
千鳥鴎の浮き姿 網曳く船や釣舟の 皆漕ぎ連れて行き通ふ 眺め長閑き春景色 面白や 
筑波根の 峯より落つる水筋も 積もり積もりて秩父より 清く流るる隅田川 
月よ花よと漕ぎ出だす 屋形屋根船 猪牙荷足 御厩隅田の渡し舟 遙か向ふを 竹屋と呼ぶ声に 
山谷の堀を乗り出だす 恋の関屋の里近く 花見の船の向島 軒を並べし屋根船の 
簾の内の爪弾は もしやそれかと人知れず 気をもみ裏を吹き返し 追手の風に

〈三下り〉 
上汐に 佃々と急いで押せば 又上手から二挺三味線弾き連れて 
様はさんやの三日月様よ 宵にちらりと見たばかり しょんがいな 
負けず劣らぬ 行き合の 船の横から三筋の糸に 二挺鼓を打つやうつつの浪の船 
自体我等は都の生まれ 色にそやされこんな形になられた 
見事な酒は多けれど 聞いてびっくり 丸三杯呑んだ盃 ついつい ついのつい 
面舵取舵声々に 乗りしお客の気も浮かれ ゴウチエイハマカイ 払って一拳押へましょ 
拳うちやめて踊るやら 扇鳴らして唄ふやら しどもなや 
賑はふ隅田の川面は これぞ真の江戸の花 
栄ふる御代こそ目出たけれ 栄ふる御代こそ目出たけれ

(歌詞は文化譜に従い、表記を一部改めた)


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「船揃」とは、本来は海の戦いや航海のために多くの船が海岸や港に出揃うことで、
中世の軍記物語では、開戦前の緊張感溢れる場面として描かれます。
もちろん、この「風流船揃」は、戦いの唄ではありません。
この曲が唄うのは、「これぞ真の江戸の花」と言い切る、賑やかな隅田川の様子です。
江戸時代には、「風流……」という題名を持つ浮世絵や浮世草子が数多く作られました。
この場合の「風流」とは、現在私たちが使うような「優雅な趣」という意味ではなく、
古典的な題材を、当世風の派手で伊達な様にやつして表現したことを意味します。
つまりこの曲は、軍記物語にあるものものしい舟合戦の準備の様子を、
多くの舟がひしめきあう隅田川の風景にやつして表現しているのです。
遊びの中から文化を生み出した船。吉原通いの粋な足となった船。
そして、江戸前の漁業を支え、上方からの下り物を運んで、江戸の大都市経済の要となった船。
隅田川に浮かぶ数々の船は、江戸っ子のアイデンティティと深く結びついたものでした。



【こんなカンジで読んでみました】

そもそも船というのは、遠い昔、唐土の黄帝にお仕えしていた、貨狄という臣下が発明したものだそうだ。
ある秋の日、風に飛ばされた柳の葉が、ひらりと一枚池に浮かんでいた。その上に乗った一匹の蜘蛛が、
白い糸を長く引きながら水の上を進んでいく、その姿を見た貨狄がひらめき、
さまざまに工夫をして生み出したのが、船だとか。
将軍様の乗る船が新しくできた時には、必ずそんな唄を唄うんだとさ。

さあ、海まで続くこの景色を見はるかしてごらん。
遠い沖の方には、色んな形に帆を張った大きな船が、春霞の向こうに見え隠れしている。
白波が打ち寄せる磯の近くでは、四つ手網を曳く小船と、少し大きな釣り船が連れだって漕いでゆくが、
波打ち際で千鳥や鴎が呑気に浮かんでいるのにそっくりじゃないか。
なんとものどかな春の景色だ。愉快だね。
川のいわれを詠んだ歌には、かの有名な陽成院の和歌がある。
筑波根の峰から落ちた水は、積りつもって男女川になったと言うが、
奥秩父の山々から、いくつもの細流れが集まったのが、この隅田川の美しい流れ。
どうだい、この川面の華やかなことといったら!
月見花見にかこつけて、漕ぎ出す屋根船、屋形船。吉原通いのお客を乗せた猪牙船に、荷物を運ぶ荷足船。
向こうへ渡るなら渡しを呼ぼう。
御厩河岸に隅田の岸、渡し舟は数々あれど、風情で言ったら竹屋の渡しが一番だ。
ほら、向こう岸の三囲神社から、「たけや~たけや~」と呼ぶ声が聞こえたら、
山谷堀から迎えの舟が漕ぎ出すのさ。
ひなびた関屋の里近く、桜で聞こえた向島では、どうやら今日も、恋の関所のひと騒ぎのようだよ。……
花見の舟の向こう側から近づいてきた屋根船の奥、聞き覚えのある爪弾きの音。
もしかして、弾いているのはあの妓かも? と内心気付いちゃったら、もう気になって気になって。
よし。確かめよ。ちょっと待てーと、船を急かして追いかける。
あの妓の紅裏を吹き返すほど、追い風吹け吹け、潮満ちろー。
「♪佃目指して急いでいるの、一生懸命櫓を押すと、潮が引いてて進めない……」
漏れ聞こえるのは佃節、むむ、これはやっぱりあの妓だわ。急げや急げと櫓を押すと、
また向かいから屋形船、二挺三味線で唄うは土手節。
「♪山谷堀から来るあなた、三夜の空の三日月みたい、宵にちらりと会ってお別れ、つれないわ……」
あら。あの妓に劣らぬいい声じゃん。
行きずり出会うも何かの縁と、隣の船から三味線の音に鼓を合わせ、船端を打つ波にも似せて、
「♪元々俺たちゃ都の生まれ、恋した相手にそそのかされて、いつしかこんな姿になったのさ。
美酒や銘酒は多いけど、聞いてびっくり、もう三杯も呑んだって?ついつい ついのついー」
……やれやれ、右へ左へ舵が揺れ、乗ってるお客の気も浮かれ、随分お酒もすすんだようだ。
お決まりの拳酒がはじまったよ。
五!七!八!九! で四連勝、じゃあ払って次の一拳、いざ勝負!
ん?拳はやめるのかい?飽きたって?で、え、踊るの?あら、あんたは扇で拍子とって唄うの。
おやおや、こりゃ大変な騒ぎだね。
暑さも寒さも昨夜の憂さも、派手に浮かれて騒いだら、すっぱりこの川に流すんだ。
花のお江戸の隅田川、これが粋なやりかたさ。
将軍様のお膝元、お江戸は今日も天下泰平、栄える御代のめでたいことよ。



【江戸の人々と隅田川】

近世の隅田川は、荒川の下流の異称で、
千住大橋よりも下流、綾瀬川との合流地点である鐘ヶ淵付近から河口までを指した。
本流である荒川は奥秩父の山を源流とし、秩父盆地を流れて関東平野に流出している。
古くは『伊勢物語』の東下りの一説で、昔男が都鳥の歌を詠んだ場所であるほか、
謡曲「角田川」で知られる梅若伝説の舞台でもあった。
江戸時代に入り、都市人口が急増すると、隅田川には経済を支える物資運搬の船が多く往来した。
上方からの物資を運んできた大型の帆船は、隅田川河口の佃沖に停泊し、
小型船に荷物を積み替えて日本橋方面へと運んだ。
『江戸名所図会』には、多くの帆船がひしめき合うように行き来する佃付近の様子が描かれている。
佃近辺は、豊かな漁場でもあった。
毎年十一月から三月にかけて四つ手網で獲った白魚は将軍家へも献上される江戸の名物であった。
この白魚を保存食として佃で製造したのが、佃煮である。
永代橋から佃あたりの隅田川河口を描いた絵画には、漁の様子や漁り火が描かれている。
また、隅田川の川面は、四季を通じて花見・夕涼み・月見・雪見を楽しめる遊興の場であった。
特に賑わいを見せたのは夏で、両国橋あたりの盛り場では、五月二十八日の川開きから三ヶ月間、
夜間営業をする茶屋や見世物、夜空を彩る花火に多くの人々が集まった。
この夕涼みの時期、川面には屋形船・屋根船のほか、夕涼み客に酒や肴を売る通称ウロウロ船、
常磐津や新内の演奏をしながら川面を流す流し船が集まり、
船頭達は衝突を避けるためにお互いに声を掛けながら船を操るほどの混雑ぶりだったという。
隅田川は、吉原の遊郭文化とも深く結びついた川でもあった。
神田川と隅田川の合流地点であった柳橋には多くの舟宿があり、
遊客はここから猪牙舟をしたてて隅田川を上り、山谷堀を通って吉原へ通った。
隅田川には近世期に五つの橋が架けられたが、橋と橋の間隔が長く、庶民にとっては不便なものであった。
そこで橋に代わって庶民の足となったのが渡し船である。
隅田川には佃の渡し、御厩河岸の渡し、竹屋の渡しをはじめとする有名な渡し場があり、
多くの舟が人々を運んでいた。

なお、中世から近世にかけての河川改修で、河川の流れはさまざまな変化を遂げてきている。
これまでに紹介した隅田川とは別に、「古隅田川」という川がふたつ、現存する。
埼玉県さいたま市岩槻区南平野から春日部市梅田で古利根川に合流する河川と、
東京都足立区で中川から分かれ葛飾区小菅で綾瀬川に合流する河川である。
かつての隅田川は利根川の下流に位置していたと考えられている。
埼玉県と東京都にあるふたつの古隅田川はかつての「利根川-隅田川」の一部であり、
古利根川→古隅田川(埼玉)→元荒川→中川→古隅田川(東京)→隅田川
という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられている。
江戸時代の絵地図からも、綾瀬川に「古スミ田川」という名の入り江が記載されており、
当時の「隅田川」とは別に、古隅田川という川が認識されていたことが分かる。



【語句について】

〔そもそも船の始まりは……匠み出だせし船とかや〕
 幕府や各藩の船の進水式などで唄われる御船歌のうち、「皇帝」という曲とほぼ同内容。
 謡曲「自然居士」を経て日本に定着したと思われる、船の由来の一説。

唐土皇帝
 黄帝。中国古代の伝説上の帝王。姓は公孫、名は軒猿。
 漢族最初の統一国家を作ったとされる。衣服、舟、家屋などを創始し、医術を伝えたという。

貨狄
 伝説上の人物で、黄帝の家臣。

蜘蛛(ちちゅう)・ささがに
 ともに蜘蛛(くも)のこと。「ささがにの」は、ここでは「糸」を導く枕詞として読むのが適当。

引きはへし(引き延ふ)
 引き延ばす。長く延ばす。

真帆片帆
 真帆は、船の帆を正面に向け、帆の全面に追い風をうけて走ること。順風を受けて走る船。
 片帆は、横風をはらませるため、船の帆を一方に傾けてあげること。横風を受けて走る船。

霞の浦
 浦は海や湖が湾曲して陸地に入りくんだところ。
 春霞がたなびく浦。ここでは地名の「霞が浦」ではない。

筑波根の峯より落つる水筋も 積もり積もりて 
 陽成院の和歌「筑波根の峰より落つるみなの川恋ぞつもりて淵となりぬる」を踏まえた表現。

秩父より 清く流るる隅田川
 隅田川の源流が秩父を通過して流れていることを指す。
 『江戸名所図会』の「隅田河」では、
 「源は信州・甲州及び上野等の国々の山谷より発し、武州秩父郡の諸流合して、これを中津川といふ。
 榛沢・男衾二郡の界を東流し、大里郡の中、熊谷に至り分流す。これを荒川といふ。
 ……豊島・葛飾の両郡の中を流れて、千住に至る。末は浅草川といふ。今これをさして隅田河と称す。」
 と説明している。

屋形・屋根船
 屋形船は屋根・部屋をしつらえた大型の船。古くは貴人が乗る船で、近世には遊覧・川遊びに用いた。
 屋根船は屋根のある、猪牙程度の小型の船。一、二人で漕ぐ。夏は簾、冬は障子で囲って川遊びなどに用いた。

猪牙
 細長くて屋根のない、先のとがった舟。
 はじめは魚荷の運搬に用いられたが、のち深川・吉原へ通う客の足となった。
 高い速力があったが、その分不安定で、乗りこなすのにはコツが必要だったと言う。
 そのため、「猪牙を乗りこなす男=吉原に通い慣れた通人」のイメージがあった。
 名前は船頭の名「長吉」によったものとも言うが、その細長い形状と速力から「猪牙」の字があてられた。

荷足
 隅田川など関東の河川や江戸湾で、比較的小さい荷物を運んだ小船。
 猪牙と同じくらいの長さであるが、荷物の運搬に適する方に幅が広くなっていた。

御うまや隅田の渡し船
 御厩河岸の渡しと隅田の渡し。
 御厩河岸(現台東区蔵前・隅田川東岸)の名の由来は、浅草御蔵に属する厩が置かれていたことによる。
 明治七年(1874)、御厩橋の架橋により廃止。
 隅田の渡しは、『江戸砂子』によれば橋場の渡しの異称。現台東区橋場にあった渡し船。

竹屋と呼ぶ声
 山谷堀待乳山下から隅田川対岸の三囲神社鳥居前までを結ぶ渡し船。
 同神社門前の茶屋の女将が、山谷堀にある舟宿竹屋の船を、
 対岸から「たけや~」と美しい声で読んでいたことが評判になったことから「竹屋の渡し」と通称した。

山谷の堀
 山谷堀。隅田川から西へ入る入堀で、狭義には今戸橋下から日本堤下までを言う。今戸堀とも。
 吉原へ通う際、船で隅田川をさかのぼって山谷堀へ入り、日本堤を徒歩や駕籠で行く方法が多くとられた。
 現在は暗渠となり、一部は山谷堀公園の敷地になっている。

恋の関屋の里近く
 「恋の関」と「関屋の里」の掛詞。
 関屋は隅田川から千住河原までの一円の地域を指す広地域名で、風光の名所として知られた。

向島
 現墨田区の北半部をさす広地域名。長唄メモ「靱猿」参照。

爪弾
 弦楽器を、撥などを用いずに指先で軽くはじいて弾くこと。
 ここでは、並んだ屋根船の簾の中から漏れ聞こえてくる三味線の音色を指す。

気をもみ裏
 「気を揉む」と「紅裏・紅絹裏(もみうら)」の掛詞。
 三味線の音から、簾の中にいるのが自分の意中の人ではないかと気を揉んでいる、ということ。
 紅絹裏は紅で染めた無地の絹布でつくった衣服の裏地。

追手の風
 順風・追い風のことを「追風(おいて)」と呼ぶが、
 ここでは意中の人が乗っている船を追いかけようとしているので、
 「追っ手」(逃げる人を追いかける人)の意味を効かすか。

上汐に
 満ちてくる潮。
 また比喩的に、物事が上向きに進む動き、盛んになっていく勢い。

佃々と急いで押せば
 俗謡である佃節の「佃々といそいで押せば、汐がそこりで櫓が立たぬ」の一節の引用。
 佃節は、隅田川の船遊びで芸妓が船出に唄った唄がはじまりと言う。芸妓はその後佃の合方を弾くが、
 永代橋を渡る時、船同士が行き会う時など、それぞれ手が決まっていたと伝わる(『歌舞伎音楽集成』)。

上手
 ここでは川の上流の方向。

〔様はさんやの三日月様よ 宵にちらりと見たばかり しょんがいな〕
 元は諸国の庶民の間で唄われた俗謡。
 『艶歌集』(安永二年(1773)刊)に「様は三夜の三日月様よ、宵にちらりと見たばかり」が収録される。
 この「三夜」に吉原遊郭があった「山谷」をあてて、吉原に通う人が唄ったものが、
 「土手節」として江戸の流行唄となった。
 土手とは山谷堀沿いの土手で、吉原土手・日本堤とも言った。

行き合(ゆきあい)
 出会うこと。行き会うこと。

三筋の糸
 三味線のこと。

二挺鼓
 1.小鼓を肩に、大鼓を脇の下に挟んで打つ囃子。 
 2.三味線に、二挺以上の小鼓を打ち合わせる演奏法。
 ここでは前に「三筋の糸に」とあること、また続く歌詞で分かるように二人以上が乗船していることから、
 2.の方が妥当か。

打つやうつつの浪の音 
 『伊勢物語』九段の和歌「駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人に逢はぬなりけり」を踏まえた表現。
 「宇津」という地名と「うつつ」の音を重ねる。
 「鼓を打つ」と、浪が船腹を打つこと、船の上の夢うつつの状態を掛けた表現。

〔自体我等は都の生まれ……ついつい ついのつい〕
 長唄『一人椀久(四季の椀久)』(安永元年(1772)・作詞作曲不明)からの引用。
 「自体我等は都の生まれ 色にそやされ こんな姿(なり)になられた
 天地乾坤混沌未分 見事な酒は多けれど  聞いてびっくり まる三杯呑んだ盃 ついつい ついのつい
 酒にあかさぬ夜半もなし それが嵩じた物狂ひ」
 船上の酒宴が盛り上がっている様子から導いたものか。
 なお「自体我等は都の生まれ」という文句は当時の流行歌だと言うが、出典・類歌未詳。

面舵取舵
 面舵は、船の先を右へ向けるときの舵の取り方。
 取舵は、船の先を左へ向けるときの舵の取り方。

ゴウチエイハマカイ
 船の上で拳酒に興じる様子。
 拳酒は、拳をして負けた者が罰として酒を飲む遊び。
 ここでの拳は本拳で、二人が右手を同時に出し、出した時の指の本数の合計をあてた者を勝ちとする遊び。
 寛永頃(1624~43)中国人が長崎に伝えたもので、長崎拳・南陽拳とも呼ばれる。
 数の呼び方が中国語を元にした符牒になっていて、
 「ゴウ、チエイ、ハマ、カイ」は「5,7,8,9」にあたる。
 『浮世風呂』(式亭三馬、文化六~十年(1809~13)刊)に
 「真の拳と云ふ物は、いい、りやん、さん、すう、う、りう、ちゑい、ぱま、くわいといふものだッサ」。

払って一拳押へましょ
 「払う」は、本拳を五本勝負で行う時のルール。『拳独稽古』(山桜漣々・逸軒揺舟、文政十三年刊)には、
 「京都堺江戸にては、みな五拳の折詰といふて、指を合すたびたびにをりこみ、
 四本をりてはらひといふて、ゆびをみな払、五本目の拳一本合せ、かちとなるなり」とある。
 つまり、右手で拳を打つときに左手で勝ち数を指を折って数え、
 五番勝負で一方が四連勝した場合(どちらかが左手の指を四本折った場合)、それまでの勝ち数を無効とし、
 五本目の拳一本の勝ち負けで勝負を決める、ということ。
 ここでは「ゴウチエイハマカイ」と四本の勝負を終えているので、それまでの勝負を払い、
 次の一拳を取ろう、という意味。

しどもなや
 「しどもない」は、しまりがなくだらしがない様子。
 「や」は間投助詞「や」の文末用法で、感動・詠嘆を表す。
 船上での酒宴の騒ぎについて言ったもの。

江戸の花
 江戸の華やかさを象徴する魅力。



【成立について】

安政三年(1856)二月。
作曲二代目杵屋勝三郎、作詞織月亭(いずれも早稲田大学演劇博物館所蔵の唄本による)。
作詞者については詳細不明。
曲名を「……ふなぞろひ(い)」と読む辞典や解説本もあるが、
『平家物語』『太平記』等先行作品の読み、及び上記唄本のふりがなに従って、
「……ふなぞろへ(え)」とするのが適当と考える。

【参考文献】
竹内有一「近世邦楽の描く江戸の名所―〈佃〉を中心に―」
 (『お茶の水女子大学 比較日本学研究センター研究年報』創刊号 2005年)
鈴木章生「隅田川をめぐる名所」(同)
竹内誠「江戸市民と隅田川」(『特別展 隅田川 江戸が愛した風景』、江戸東京博物館)
日本歴史地名大系第13巻『東京都の地名』(平凡社、2002年)
日本庶民文化史料修正 第五巻『歌謡』(芸能史研究会、1973年)
 →(浅野建二校注・解題「第四部 御船歌集成」)
新日本古典文学大系57『謡曲百番』(岩波書店、1998年)
西岡陽子「祭礼における「御船歌」」(大阪芸術大学紀要『藝術35』、)
平賀禮子『御船歌の研究』(三弥井書店、1997年)
山岡知博「邦楽と民謡の谷間」(『日本歌謡研究』第34号、1994年12月)
杵屋栄左衛門『歌舞伎音楽集成(江戸編)』(「歌舞伎音楽集成」刊行会、1976年)
齋藤月岑『江戸名所図会』(天保五~七年(1834‐36)刊)
 →鈴木棠三・朝倉治彦校注『新版 江戸名所図会』(角川書店、1975年)
井上和人「『風流 御前義経記』の「風流」―その出自―」(『京都語文』第13号、2006年11月)
加藤好夫「私説『風流やつし七小町』―春信画に見る絵と文芸との交響―」
 (『浮世絵芸術』143号、2001年3月)
『拳会角力図会』(義浪著、文化六年(1809)刊、国立国会図書館所蔵デジタル資料)
『拳独稽古』(山桜漣々、逸軒揺舟著、文政十三年(1830)刊→『雑芸叢書』第一所収)



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