喜三の庭
安政六年(1859)九月

作曲 二代目 杵屋勝三郎 三代目 杵屋正次郎
〈三下り〉 
牡鹿鳴く この山里と詠みたりし 嵯峨野の秋の月の夜に 露の千草を踏み分けて 
宿直姿の藤袴 駒ひき留めて休らへば それとしるべの松風に 
通ふ爪音 身にしみて 合はす音色の 笛竹や 
月の前の調べは 夜寒を告ぐる秋風 雲井を渡る雁がねも 琴柱に落つる声々に

〈本調子〉[楽合方]
想夫恋の曲は 比翼の翅を恋ひ 盤?調のしらべは 連理の枝に通ふ 

これは畏き君が代に わりなき仲の一節を 諷ふも同じ一夜の君が 情にひかれては 
尋ね廓の通ひ路に 七百年も昨日今日 菊の着せ綿うちかけに 桔梗苅萱女郎花 
店清掻の 音につれて 色香争ふ出立栄 萩の錦か含める露の 玉揃ひ 
末はまがきにせかれても 格子を覗く月影に 招く尾花の 忍び音は 実に面白き仙境なり 

豊年の 今年は未八束穂の 刈穂の出づるわたましに 実入を運ぶ出来秋や 
なほも千秋の楽しみと 謡ひはやして祝しけり 謡ひ囃して祝しけり

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日本の文学・芸能には「やつし」という表現方法があります。
「やつし」とは権威あるものを当世風(現代風)につくりかえて表現することで、
近世には浮世絵・歌舞伎・俳諧など様々な分野で、古典作品を題材にした「やつし」の作品が生まれました。
長唄「喜三の庭」の前半部分は『平家物語』にある有名なエピソードで、
嵯峨野に隠れ住む小督という女性を、帝の命を受けた源仲国が探しに来る場面です。
琴の音色を手がかりに小督を探し当てた仲国が笛で自分の来訪を知らせる、という風雅な場面は、
のちに謡曲や箏曲の素材にもなりました。本曲は箏曲の「小督の曲」を直接の典拠にしています。
『平家物語』の雅やかな世界から一転、後半部分は江戸時代の廓の情景です。
一見まるで関係のない世界のようですが、琴を弾く小督を清掻を弾く遊女に、
嵯峨野を訪れる仲国を廓を訪れる客にそれぞれやつして表現し、二つの世界を重ねています。
さらに嵯峨野の秋を彩る「露の千草」は、廓の遊女を秋の草花にたとえて賞賛することで表現されています。
『平家物語』の世界を縦糸に、秋の草花を横糸にして、七百年の時を飛び越えて描かれる秋の風流は、
豊かな実りをキーワードにして、床開きの祝いの言葉におさまります。
箏曲の詞と旋律を多用しているのは、琴の名手であった小督の世界をより効果的に再現するためでしょう。
私達が教科書で学ぶ古典の世界は、江戸の人々にとっても憧れの対象であったのです。



【こんなカンジで読んでみました】

かの藤原基俊卿が和歌にお詠みになったのも道理でございます。
牡鹿が妻を求める鳴声に切なさ募る嵯峨野の山里、それはある秋の月の晩のことでございました。
……


■「喜三の庭」の解説・現代語訳・語句注釈のつづきは、

『長唄の世界へようこそ 読んで味わう、長唄入門』(細谷朋子著、春風社刊)

に収録されています。
詳しくは【長唄メモ】トップページをご覧ください。



「喜三の庭」【稽古三味線で合方演奏】