操三番叟
嘉永六年(1853)二月
作詞 篠田瑳助
作曲 五代目 杵屋弥十郎
〈二上り〉 
天照らす春の日影も豊かにて 指す手引く手の一さしは 昔を今に式三番 
ありし姿をかり衣に 竹田が作の出立栄 
とうとうたらりたらりら たらりあがり ららりどう 
千代の始めの初芝居 相かはらじと〔相河原崎〕賑わしく〔う〕 
人の山なす蓬莱に 鶴の羽重ね亀の尾の 長き栄を 三ツの朝 幸ひ心に任せたり 
鳴るは瀧の水 鳴るは瀧の水 なると云ふのはよい辻占よ 
天津乙女の 様がもと 絶えずとうたり 絶えずとふのが誠なら 
日は照るとも 濡るる〔濡れる〕身に 着つつ馴れにし羽衣の 
松の十返り 百千鳥 絶えずとうたりありうどう

〈本調子〉 ※ 
その恋草はちはやぶる 神のひこさの昔より 
尽きぬ渚のいさご路や 落ち来る瀧の 末かけて 結ぶ妹背のよい仲同士に
天下泰平 国土安穏 今日の御祈祷なり

〈三下り〉 
おおさえおさえ喜びありや 我がこの所より外へはやらじとぞ思ふ
天の岩戸を 今日ぞ開ける〔開くる〕この初舞台 
千代万代も 花のお江戸の とっぱ偏に お取立て 
をこがましくも御目見得に〔御目見得を〕 ほんに鵜の真似からす飛び 
難波江の岸の姫松葉も繁り ここに幾年住吉の 神の恵みのあるならば 
君にあふぎの御田植 逢ふとは嬉し言の葉も 
浜の真砂の数々に 読むとも尽きぬ年波や 
なじょの翁は仇つき者よ つい袖引いて なびかんせ 
そうも千歳仲人して 水も洩らさぬ仲々は 深い縁ぢゃないかいな おもしろや
相生のまつ夜の首尾に逢ふの松 ほんに心の武隈も 岩代松や曽根の松 
あがりし閨の睦言に 濡れて色増す辛崎の 松の姿の若みどり ※※
千秋万歳万万歳 五風十雨も穏やかに 恵みを願ふ種蒔と 謡ひ奏でて祝しける〔祝しけり〕

(歌詞は文化譜により、表記を一部改めた)

歌詞異同
〈二上り〉
ちはやぶる 神のひこさの昔より 
わが敷島のやまと歌 天下泰平 国土安穏 今日の御祈祷なり

※※「相生の……松の姿の若みどり」 抜く場合あり

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三番叟を題材にした長唄はいくつかありますが、本曲「操り三番叟」はその中でも一風変わったもの。
糸で操られた三番叟の人形が舞を舞う、という趣向です。
糸操りの人形は、江戸時代には「南京あやつり」と呼ばれていました。
南京あやつりは人形芝居の見世物としても人気を博しましたが、子供のおもちゃとしても流行したようで、
三番叟の操り人形を売り歩く商人の姿が読み物に描かれています。
三番叟のはつらつとした躍動的な舞は、あやつり人形にするのにぴったり。
特徴的な扮装もあいまって、子供からも愛されたのでしょう。
歌詞には翁・千歳・三番叟が登場しますが、三番叟の部分だけを抜き出して舞うこともあります。
人形という設定ですから、花道を歩いて登場するわけにはいきません。
箱の中から後見役の人に抱えられ、舞台の中央に据えられます。
ぐったりとした人形の踊り手が、後見役が糸を調べて操りはじめると、
命を与えられたかのように生き生きと舞い始めるのです。
踊り手は実際に糸でつながっているわけではありませんが、
その表現力と、後見役との息を合わせたやりとりで、
ないはずの糸が目に見えるほどリアルな人形振りがこの舞踊の眼目です。

さて、この「ないはずの糸」を、本当につけてしまった人がいます。
糸といっても、正確にはゴムの糸。
明治時代を代表する名優・五代目尾上菊五郎は、ゴム糸を使って、三番叟が実際に宙に浮く演出をしました。
菊五郎は、西洋渡来の見世物を積極的に歌舞伎に取り込んだ人。
このゴム糸のアイディアも、
当時大流行した西洋マリオネットを歌舞伎で演じた経験がヒントになっているように思います。
百年以上昔の舞台に、ふわふわとからす飛びをする人形の三番叟がいただなんて、
想像するだけで心の浮き立つ光景です。
三番叟物はお祝いの曲。
マリオネットの可愛らしい三番叟が、全ての人に幸せを運びます。

「三番叟」について、また詞章中の語句については、長唄メモ「舌出し三番叟」もご参照ください。



【こんなカンジで読んでみました】

春の日射しが天から豊かに降り注ぐ今日。
ご覧に入れます舞のひとさしは、古き時代を今ここに見せる式三番。
狩衣を着ていた昔の姿を借りて、竹田からくりのような人形づくりのいでたちで――。

とうとうたらりたらりら、たらりあがり、ららりどう。
みでたい御代の、年のはじめの初芝居。
いつもと変わらず賑やかに、お客様が押し寄せる。
蓬莱山に住むという、鶴が羽根を重ねるように、今年も良いことが重なりますように。
亀の尾が長く伸びるように、栄えが長く続きますようにと祈る元日の朝。
そう、幸せは思うままに溢れているよ。
鳴る滝の水の勢い豊かに、成るとはめでたい占いだ。
天女とみまごうあなたのもとに、滝は絶えずにとうとうと流れ、絶えずに訪うのが想いの証。
それなら私は、日が照っても枯れない情けであなたを待ちます、
身になじんだ羽衣を、松の小枝にそっとかけて。
その松の枝に花が十回咲くほどに、百千鳥の百回、千回、絶えずに逢いに行くよ、滝はとうとうと流れるよ。

激しく燃える恋の想いは、昔むかしの神様の代から、尽きることない浜辺の砂と同じもの。
落ちる滝の流れが果てるまでもと、将来を誓って結ばれた夫婦の仲の睦まじさ。
天の下のすべて、この国のすべてが安らかであるように、今日ここに祈ろう。

ああ、なんて喜ばしいことだろう。私はこの喜びを、他のどこへもやりたくないと思うよ。
天の岩戸も開いてしまいそうな賑やかさ、今日はめでたい初狂言の幕開き。
千年も万年もずっとずっと、花のお江戸の皆様に、ごひいきいただけたら幸せです。
おこがましくはありますが、御目見得できたご挨拶に、鵜の真似をするカラスのように、
三番叟のからす飛びをご披露いたしますよ。
大坂難波の岸に生える、姫松の葉も青々と茂る。
ここに幾年住んだだろう、住吉明神さまのお恵みがあるならば、扇を贈る御田植祭できみに逢いたい。
逢いたいなんて嬉しい言葉、でもそんな言葉を数えてみても、
浜辺の砂を数えてるみたい、数え切れてもいないのに、わたしはきっとおばあちゃん。
どこの誰だか知らないけれど、そこの翁は浮気者ですよ。
うっかり誘って心ひかれて、だったらもっと私のことも好きになってよ。
それでも千歳の仲人で千年も二人で連れ添って、ずっと仲良くいられるなんて、よっぽど深い縁じゃないか。
そういうのも、面白いね。

あなたを待って、そしてあなたに逢えた夜。
心にいっぱい詰まった気持ち、全部言わせてほしいのに。うまく言えずにすねてみても、
枕にかすれる甘い言葉に、うるんでまた美しくなる、雨に打たれた若松が、緑を深めていくように。

行く末長くいつまでも、御代おだやかに恵み豊かにあるように。
その祈りの種を蒔き、謡い奏でて祝いましょう。



〈二上り〉
昔むかしの神様の代から、古くこの国に続く和歌の道。
天の下のすべて、この国のすべてが安らかであるように、今日ここに祈ろう。



【操り人形】

長唄「操り三番叟」初演時は、三番叟は糸操りの人形、翁と千歳はゼンマイ仕掛けの人形という趣向だった。
糸操りの人形は「南京あやつり」と呼ばれ、江戸初期から上方で演じられはじめた。
南京の称は、中国方面から渡来したからとする説と、
珍しいものや小さいものに「南京」と冠したからとする説があり、後者が有力。
小さい人形の各部に糸をつけて上からつり下げ、上部でその糸を操って人形を動かし、踊らせるもので、
見世物小芝居として流行したが、宝暦頃一時途絶。江戸では元禄頃に流行したという。
見世物としてだけでなく、子供のおもちゃとしても広く愛された。
『江戸のくらし風俗大事典』所収の、寛政五年(1793)刊『四人詰南片傀儡』には、
「さんばそうさんばそう なんきんあやつり」の呼び声とともに、竹棹の先に吊るした人形を売り歩く商人と
群がる子供の姿が描かれており、三番叟をモデルにした南京あやつりが一般的であったことが知られる。

人形芝居としてもっとも有名なものは、大坂道頓堀で竹田近江によって創設された竹田からくり芝居である。
からくり専門の芝居としてはわが国最古のもので、人形・道具・屋台などが機械仕掛けで動いた。
人形浄瑠璃の竹本座を創設した竹田出雲は、竹田近江の次男にあたる。
竹田芝居はのち小芝居の歌舞伎に転じたが、劇場自体は明治九年(1876)まで存続した。
本曲詞章の「竹田が作」はこの竹田からくりのことだが、
正確には竹田からくり芝居は糸操りではない。



【明治歌舞伎の一側面 菊五郎の「操り三番叟」と西洋見世物】

明治時代の歌舞伎の大きな特徴に、演劇改良運動の影響がある。
荒唐無稽な筋を排し、歌舞伎を貴人や外国人が鑑賞するに相応しい近代の演劇にするための運動で、
明治を代表する歌舞伎俳優の九代目市川団十郎はその中心となり、
正確な時代考証に基づく史劇の普及などに取り組んだ。
演劇改良運動は、天覧歌舞伎の実現や歌舞伎座開場などの一定の成果をあげたが、
堅苦しい改革が一般の観客に受け入れられなかったこともあり、長くは続かなかった。

一方で、明治時代の歌舞伎は、
新しく来日した珍しい見世物や、市井の事件・日清戦争の戦況などを芝居に仕立てて観客に届けるという
ニュース性を兼ね備えていた。
九代目団十郎と並んで明治歌舞伎を代表する五代目尾上菊五郎は、
話題になった西洋渡来の見世物を次々に歌舞伎に取り込んだことで知られている。
例えば、明治十九年(1886)に来日したイタリア人・チャリネ率いるサーカス団(チャリネ曲馬団)が
連日満員御礼の賑わいになると、菊五郎は同年『鳴響茶利音曲馬(なりひびくちゃりねのきょくば)』で、
イタリア人曲馬師(チャリネ)・アメリカ人の一本足の軽業師・フランス人の象使いの三役を演じた。
矢内賢二氏によれば、菊五郎は外国人の扮装やしぐさを大まかに真似るにとどまらず、
見に来た西洋人さえ驚くほど、どれもをそっくりに演じ分けたという(参考文献参照)。
また、明治二十三年(1890)に来日したガス軽気球乗り(風船乗り)スペンサーが話題になれば、
翌年には『風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)』でスペンサーに扮し、
「宙乗り」「遠見」という歌舞伎の手法を用いて空を飛ぶさまを演じてみせたという。
明治二十七年(1894)『鈴音真似操(すずのおとまねてあやつり)』では、
日本にはじめて西洋マリオネット芝居を持ち込んだダーク一座を芝居に仕立てた「ダークの操り人形」を披露。
菊五郎は足長の人形や道化師の人形など、複数のマリオネットを演じ分けた。
このように新しい文化・文物を次々に吸収し、どれも高精度に歌舞伎に再現してみせた菊五郎について、
矢内氏は菊五郎の柔軟な身体能力と、新しい演技術を編み出していくすぐれた知覚を指摘している。
人形の当て振り自体は、本曲に代表されるように明治以前から我が国に存在しており、
菊五郎自身もこれ以前、例えば天覧歌舞伎の際にも「操り三番叟」を演じている。
明治三十一年十二月の『東京朝日新聞』には、翌月狂言の予告に「菊五郎得意の「操三番」」とあるが、
「ダークの操り人形」で、写実的な西洋のマリオネットを演じた経験は、
菊五郎の「操り三番叟」をさらに進化させたのではないだろうか。
明治三十二年一月に歌舞伎座で「操り三番叟」を演じた際、菊五郎は大きな改訂を施した。
それまでカラクリ人形の趣向で演じられていた翁と千歳を人間の設定にし、
三番叟は操り糸に模したゴム紐でふわふわと宙乗りしたのである。
この時の『東京朝日新聞』の劇評は以下の通り(表記一部改訂)。

  大切の操り三番ハ外に類ハあるとも、それとハ品が違ふ「寺島一流」、褒めるハ糸のもつるヽより
  うるさかるべし。前に勤めし時と替り、ゴム糸にて真に操り、時々宙に釣られての骨折りは大喝采、
  長い間の舞台に面に少しも緩みなく、さながら能面のごとくなるハ誠に精神みちみちて
  見るに有難さを増したり。福助の翁品格あり、栄三郎の千歳奇麗なり、新年の狂言大入なるハ
  めでたしめでたし。



【鳴るは滝の水】

本曲詞章にもある「鳴るは滝の水」の歌詞は、能「翁」の詞章を引用したものだが、
このフレーズは能「翁」原型成立の時にはなく、後代に流行した歌謡を詞章に取り入れたものと考えられている。
今様と呼ばれる当時の流行歌謡を集めた『梁塵秘抄』巻第二(404)に、
 
  滝は多かれど 嬉しやとぞ思ふ 鳴る滝の水 日は照るとも絶えでとふたへ やれことつとう
 (滝は多いが 嬉しいぞ鳴る滝の水 日は照らせどもいつも流れて やれことつとう)
 
の歌がある。同様の歌は他の物語の中にも散見され、『平家物語』巻一「額打論」には、
興福寺の法師が延暦寺にかかげられた額を切り落として、
「うれしや水、なるは滝の水、日は照るともたえずとうたへ」とはやし立てる場面がある。
また『義経記』巻第八「衣川合戦の事」でも、弁慶が敵軍との合戦を前に仲間を鼓舞して、

  嬉しや水、鳴るは滝の水、日は照るとも、東の方の奴ばらの鎧兜を首諸共に、
  衣川に斬りつけて流しつるかな

と替え歌を謡う。
この「鳴るは滝の水」の歌について、上田設夫氏は
「自己の行為が真偽にもとるものではないことをいうときに、この詞句をとなえているのがみえる。
当時、広く流布した言いまわしであったのだろう。滝の水が思いきり流れをくだって奔放である姿に、
自己の行動を比えた言辞で」あると解説する(『梁塵秘抄全注釈』前掲訳文も本書引用による)。
また梶原正昭氏による『新編日本古典文学全集62 義経記』頭注では、
「その勇壮な響きからか、多くは戦いの前後に士気を鼓舞する目的で歌われたらしい」としている。
このフレーズは、能「翁」においても、若々しく勇壮な千歳の舞の一部として取り入れられている。
また能「安宅」においても、弁慶が富樫との酒宴で「鳴るは滝の水」を歌い舞う。
地謡は「もとより弁慶は三塔の遊僧」と、
弁慶が元比叡山の遊僧であったことを述べて弁慶が舞を舞う背景を説明するが、
「鳴るは滝の水」という歌はただ無作為に流行歌の中から選ばれたわけではなく、
弁慶が忠義にもとづいて義経を逃がそうとする場面に至極合致した歌であったと言える。
能「安宅」の該当場面はほぼそのまま長唄「勧進帳」に引用されている。



【語句について】

天照らす
 「天照る」に尊敬を表す「す」がついた語。
 天上にあって地上を照らしておられる、の意で、太陽を意識しながら天上の神を敬う語。
 また「日」「月」にかかる枕詞としても用いられ、ここでは「日影」にかかる語。
 『日本舞踊全集』の解説では、能の金春流では翁を天照大神の本地とすることを挙げている。

春の日影も豊かにて
 「日影」は1.日の光、ひざし、日光。 2.昼間の時間。
 「豊か(なり)」は
 1.物が豊富で、心が満ち足りているさま。 2.財産がたくさんあるさま、富裕なさま。
 3.物が内部に充ち、ふくらみの出ているさま。 4.他の語に付き、それに十分に達しているさま。
 ここでは1。

指す手引く手
 差し出す手と引っ込める手。舞の手振りのこと、また広く舞のこと。

一さし
 一指・一差などと書き、舞・相撲・将棋などの一回、一番のこと。

昔を今に式三番 
 古来からある式三番(能「翁」の原型)を、今ここに当世風に見せるということ。

ありし姿をかり衣に
 「ありし(在りし)」はもとの、昔の、生前の。
 「かり衣」は狩衣、平安時代の衣服の一つだが、ここでは「借り」を表すための掛詞として言うのみ。

竹田が作
 「竹田の製作」の意。竹田からくり=人形の連想で、本曲の三番叟が人形仕立てであることを示す。
 竹田からくりについては【操り人形】参照。

出立栄 
 「出立栄」は、いでたちの立派なこと。装いたてていっそう美しさの増すこと。
 ここでは竹田からくりの人形芝居をほうふつとさせるような、みごとな人形姿で登場したことをいう。

とうとうたらりたらりら たらりあがり ららりどう 
 能「翁」からの引用で、翁の謡の最初の文句。呪文であるとする説、チベット語由来説など諸説ある。
 「どうどう……」と濁る謡い方もあることから、
 表章氏『能楽史新考』では囃子の擬声が謡に取り込まれたものとする。
 『新編日本古典文学全集 謡曲集1』の頭注では、後の千歳の謡「とうたり、ありうどうどう」が
 滝の水音と解しうることから、水の音を表すかとしている。
 ただし、前出の表氏は千歳の謡部分は後代に移入した可能性を指摘しており、意味・典拠は未だ判然としない。

千代の始めの初芝居 
 「千代」は長い年月、長く続く世を言う語。
 「初芝居」は1.俳優がはじめて芝居を演じること(初舞台)。 2.歌舞伎などで新年のはじめの興行。
 ここでは全体の文意から2だが、本曲は二代目嵐璃珏の江戸初御目見えの曲でもある。

相かはらじと〔相河原崎〕と賑わしく
 「じ」は打消し推量で解釈し、「ずっと変わらないだろう(河原崎座の賑わい)」。
 初演時は「相河原崎」と唄った。
 
人の山なす蓬莱
 「賑わしく」から、人が多く集まるさまを言う「人の山」といい、山の連想で「蓬莱」を導く。
 蓬莱は「蓬莱山」とも。中国の神仙思想で説かれる仙境のひとつで、方丈・〓州(えいしゅう)
 とともに三神山のひとつ。渤海湾に面した山東半島のはるか東方の海中にあり、不老不死の仙人が
 住むと伝えられる島。
 日本ではこの蓬莱山をかたどった台上に、鶴亀・松竹梅・尉姥などを飾って祝儀や酒宴の飾りとした。

鶴の羽重ね亀の尾の 長き栄
 「蓬莱」からの縁で「鶴」「亀」を導く。
 鶴は中古以後、中国の影響で神仙の乗り物とされ、また千年の寿命を保つ瑞鳥として尊ばれるようになる。
 「羽重ね」は、鳥が一つ羽の上に他の羽を重ねることをいったもの。
 長寿や幸福が重なっていくさまを連想させる。
 亀も鶴と同じく長寿の象徴。「亀の尾」は、亀の甲羅に藻がついて尾のようになったもので、
 「みのがめ」と呼ばれ特にめでたいとされた。長唄メモ「鶴亀」参照。

三ツの朝
 一日の朝、一月の朝、一年の朝と三つ重なることから、元日の朝、元旦のこと。三朝・三始とも。

幸ひ心に任せたり 
 能「翁」からの引用。
 「幸福はお心のままである」(『新編日本古典文学全集』)、
 「思い通りの幸せを享受しています」(『能を読む』) などと訳される。

鳴るは瀧の水
 能「翁」千歳の舞の詞章「鳴るは滝の水、鳴るは滝の水、日は照るとも、絶えずとうたり」による。
 「鳴り響くのは滝の水、日照りが続いても、絶えることなくとうとうと流れる」の意。
 詳細は【鳴るは滝の水】参照。

なると云ふのはよい辻占よ 
 前の「鳴る」を受け、「成る(成就する、実現する)」と掛けていう。
 「辻占」は、辻に立って通行の人の言葉を聞き、吉凶を判断する占い。
 江戸時代には、辻占売りと呼ばれる商人が売り歩く紙に書かれた占いのこともいい、ここでは後者。

天津乙女
 天上に住むと考えられる少女。天女、天人。
 能「翁」詞章「君の千歳を経んことは、天つ乙女の羽衣よ」による表現。
 長唄「寿世嗣三番叟」では上記の詞章がそのまま引用されているが、
 本曲では「天津乙女」と男の色模様に世界を転じている。

様がもと
 「様」は代名詞。「君様」「方様」「貴様」の略とも言われる。
 江戸時代、多く遊女と客の間で用いられた。
 1.対称代名詞。相手に対し親愛の情をもって呼ぶときに用いる語。男女ともに用いた。
 2.他称代名詞。話し手と相手の両者から離れた恋する人を指す語。あの方。
 ここでは次の「絶えずとふのが誠」の文脈から、様を訪ねていくのが男、
 羽衣を着ている「濡るる身」=様=天津乙女として解釈した。

絶えずとうたり 絶えずとふのが誠なら 
 能「翁」の詞章(【鳴るは滝の水】参照)とかけて、「絶えず訪ふ」という。
 男性が女性の元に通うさま。「誠」は真情、偽りのない情のことで、廓での男女関係を想起させる。

日は照るとも 濡るる身に 
 「濡る」は現代の「濡れる」の意の他に、色事をする、恋愛関係におちいる、情事をする、の意がある。
 また、「濡るる顔」「濡るる袖」は涙にくれるさまをいう表現。
 「照る」と対義的な「濡るる」という語を用いて、「日は照るともたえずとうたり」の文脈に沿いながら、
 恋情にある乙女のさまを言うか。

着つつ馴れにし
 在原業平の和歌「唐衣着つつなれにしつましあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ」を踏まえた表現。
 衣の縁で次の「羽衣」を導く。

羽衣 
 天人の衣裳。天女がこれを着て空中を飛翔すると言われる。

松の十返り 百千鳥 
 前の「羽衣」の縁で「松」を導き、さらに十・百・千という数の縁でつなげた詞句。
 「松の十返り」は、松が百年に一度、すなわち千年に十度花を咲かせると伝えられること。
 転じて、花を十回咲かせた松(千年を経た松)、あるいは万年の樹齢の松(長唄メモ「老松」参照)。
 「百千鳥」は1.千鳥の異称。 2.鴬の異称。 3.多くの鳥、いろいろの鳥。
 ここでは広く、さまざまな鳥たちと解釈した。

絶えずとうたり ありうどう
 能「翁」詞句の引用だが、ここでは前の数の羅列を受けて「数えきれないほど足しげく通った」の意を含む。

〔本調子の場合〕 
恋草
 1.恋心がつのるのを草が茂るさまに例えた語。
 2.恋愛、恋愛ざた。また、恋人。

ちはやぶる 神のひこさの
 能「翁」の「ちはやふる、神のひこさの昔より、久しかれとぞ祝ひ、……」による表現。
 「ひこさ」は「彦様」の変化した語で、男子の美称。神様、また神代のこと。

渚のいさご路
 能「翁」の「渚の砂(いさご)、索々として、朝(あした)の日の色を朗ず」による表現。
 「いさご」は砂、まさご。「いさご路」は砂ばかりの道で、後の「浜の真砂」とほぼ同義。

落ち来る瀧の 末かけて
 能「翁」の「滝の水、冷々と落ちて、夜の月あざやかに浮んだり」による表現。 
 「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれてもすゑにあはむとぞ思ふ」(『詞花和歌集』崇徳院・229)のように、
 「末」に滝の下流の意と将来・未来・行く末の意の両方を含ませた表現。
 「末懸(すゑかく)」は、将来を約束する、末々までを契る。

結ぶ妹背のよい仲同士に
 「妹背」は1.親しい男女の関係。特に夫婦の関係。 
 2.兄と妹。姉と弟。また兄弟姉妹それぞれについても言う。 3.ホトトギスの別称。
 2は主に平安時代に用いられたもので、中世後半にはもっぱら夫婦を表す語になった。
 ここでも1。「妹背を結ぶ」で、男女の縁を結ぶ。

天下泰平 国土安穏 今日の御祈祷なり
 能「翁」の「天下、泰平国土安穏の、今日の、御祈祷なり」の引用。
 国家が穏やかに治まり栄えることが、翁による祈祷の目的であるということ。

〔二上りの場合〕
わが敷島の大和歌
 「敷島の大和歌」は和歌のこと。
 「敷島の」は、崇神天皇・欽明天皇が大和国磯城郡に都をおいたという伝承から、
 敷島の宮があった現奈良県の「大和(やまと)」、日本を表す「大和(やまと)」にかかる枕詞。
 また、「敷島の大和歌の道」が和歌の道(歌道)を表すことから、「道」にかかる枕詞。
 ここでの文意は不明瞭で、他作品に類似表現があるかとも思われるが未見。
  
〔おおさえおさえ……ほんに鵜の真似からす飛び〕
 以下、三番叟の舞。長唄メモ「舌出し三番叟」参照。

難波江の岸の姫松
 「難波江」は現在の大阪湾付近の海の古称。歌枕。「難波潟」とも。
 「姫松」は小さい松、また松の美称。
 一般に難波江とともによく歌に詠まれるのは葦で、
 岸の松(姫松)は次に出てくる住吉(住之江)の景物として詠まれることが多い。

ここに幾年住吉の 神の恵み
 「ここに幾年住み」と「住吉の神」を掛けた表現。
 「住吉の神」は摂津国一宮である住吉明神のこと。和歌・航海・商売繁盛の神として信仰された。
 
君にあふぎの御田植 
 「君に逢ふ日」と「扇」を掛ける。
 「御田植」は住吉明神で五月二十八日に行われた御田植祭のこと。
 和泉国堺の遊女が早乙女に扮し、苗を植える神事を行った。この時、神社から田植扇と言って、
 早乙女役の遊女に扇が贈られた。

逢ふとは嬉し言の葉も 
 前の「あふぎ」から「逢ふ」を導く。

浜の真砂の数々に 読むとも尽きぬ年波や 
 文意は、「浜の砂の数のように、数えても尽きることがない年月よ」。
 後の「翁」の語を導くか。前とのつながりが不明。

なじょの翁
 「なじょ」は「なでふ」「なんでふ」の転訛。 どのような翁(なのか)、何という翁(なのか)。
 能「翁」にある語句で、『能を読む』解説によれば、能「翁」の古い様式でこの後に登場した
 「黒式尉」「父尉」という翁を指した語。
 『日本舞踊全集』では本曲においては三番叟をさすとしている。

仇つき者 
 動詞「徒付く・婀娜付く」は、
 1.異性に対する恋心や浮気心で落ち着きを失う。浮つく。
 2.異性に対してあだっぽくたわむれかかる。男女がいちゃつく。
 「徒つき者」は浮気者の意。

つい袖引いて なびかんせ 
 「つい」は
 1.時間・距離・数量などが、ほんのわずかであることを表す語。すぐ、じきに、簡単に、ちょっと。
 2.意図しないでそうなってしまうさま、不本意ながらその動作をしてしまうさまを表す語。
 うっかり、思わず知らず。何の気なしに。 ここでは2。

そうも千歳仲人して
 「そうも」を、『歌謡音曲集』では「添ふも」、『日本舞踊全集』では「抑(そも)」として解説している。
 (早稲田大学演劇博物館所蔵唄本ではひらがな表記)
 「添ふ」とすると、「千歳」には千年の意と、能「翁」に登場する千歳の意の両方が含まれることになる。

水も洩らさぬ仲々は
 「水も漏らさぬ」は
 1.すこしの間隙もなく敵を囲むさま。防御または警戒の厳重なさま。
 2.交情が極めて親密なさま。 ここでは2。

〔相生のまつ夜の首尾に……松の姿の若みどり〕
 松づくしの歌詞の部分。

相生のまつ夜の首尾に逢ふの松
 「相生の松」に「待つ夜」を、また「首尾に逢ふ」に「首尾の松」または「逢ふの松」を掛けた表現。
 「相生」は二本の幹が相接して一つの木のようにして生え出ることで、そのような松を「相生の松」という。
 「相老い」にも通じ、夫婦和合の象徴とされる(長唄メモ「老松」参照)。
 「首尾」は1.はじめとおわり。終始。 2.物事のなりゆき。事のてんまつ。
 3.都合よくゆくこと。都合をつけること。都合。 ここでは3で、都合よくの意。
 「首尾の松」は江戸浅草の幕府米蔵内、隅田川のほとりにあった松の大木。
 吉原へ船で往来する者の目印となったことで知られる。
 「逢ふの松」は播磨国(一説に長門国とも)の歌枕「逢松原(あふのまつばら)」のこと。
 現兵庫県姫路市と推定され、古くは白砂青松の景勝地であったという。
 「逢ふ」「待つ」の意をかけて歌に詠まれた。

ほんに心の武隈も 岩代松や曽根の松 
 「心の丈」にかけて「武隈の松」を導く。
 「心の丈」は、心の深さ、思いのほど。また、心中思っていることのすべて。
 また「岩代松」「曽根の松」に、「言はせ」(「言はず」?)「拗ね」をかけるか。
 「武隈の松」は陸奥国の歌枕・武隈に生える松。松はふつう長寿の象徴とされるが、武隈の松は
 平安時代に何度も枯れては植え継がれた松として歌に詠まれている点に特異性がある。
 古くは二本の木であったと考えられている。
 「岩代(磐代)」は現和歌山県南西部の地名。結び松の伝説地として知られ、歌に詠まれる。
 結び松は、誓いをかけたり契りを結んだりしたしるしに松の枝を結び合わせることで、
 古来は魂を結びこめて命を無事を祈る古代呪術のひとつ。
 「曽根の松」は現兵庫県高砂市曽根天満宮にある、菅原道真が手植えしたと伝わる松。

あがりし閨の睦言に
 「閨」は1.夜寝るために設けられた部屋。 2.奥深いところにある部屋。深窓。夫人の部屋。
 ここでは1。
 「睦言」はむつまじく語る言葉。特に、男女の閨の中での語らい。

濡れて色増す辛崎の 松の姿の若みどり
 「辛崎の松」は唐崎の松のこと。近江国の歌枕で、現滋賀県大津市唐崎神社のあたり。
 唐崎の一本松は古くから名勝地として知られていたようで、多くの歌に詠まれている。
 「濡れて色増す」は花が雨にぬれて美しさを増すこと、
 転じて恋情・色事を知って女性が美しさを増すことで、「濡れる(=雨)」と唐崎の取り合わせは
 近江八景のひとつ「唐崎夜雨」を含んだ表現と思われる。
「松の姿の若みどり」は、松のみずみずしい若葉とともに、若い女性の姿を表す。
(より狭義に、太夫になったばかりの若い遊女を表すか)

千秋万歳万万歳
 千年も万年も。転じて永遠。また永遠や長寿を祈る言葉。

五風十雨も穏やかに
 『論衡』の一節「五日ニシテ一タビ風フキ、十日ニシテ一タビ雨フル」により、
 気候が順調なこと。転じて、気候が農作業上好都合で、天下泰平であること。



【成立について】

嘉永六年(1853)二月、江戸河原崎座「しらぬひ譚」大切として初演。
本名題「柳糸引御摂(やなぎのいとひくやごひいき)」。
大坂の役者・二代目嵐璃珏(あらしりかく)が江戸下りの御目見得所作事として演じた。
原曲は前年に璃珏が大坂で踊った「初櫓豊歳三番叟(はつやぐらたねまきさんばそう)」。
璃珏の当たり役となっていたものを、江戸の篠田瑳助が詞章を、四代目杵屋弥十郎・五代目杵屋六三郎が
曲を改作した。
江戸初演時については、『日本戯曲全集27 舞踊劇集』『続長唄のうたひ方』に詳しい。
明治に入って、五代目杵屋勘五郎が再改作。
さらに明治三十二年(1899)正月歌舞伎座で五代目尾上菊五郎が演じた際、翁と千歳をゼンマイ人形でなく
普通の人間の振りに直すなどの改訂が行われ、現在に至る。



【参考文献】

渥美清太郎校訂『日本戯曲全集27 舞踊劇集』春陽社、1928
石橋健一郎「歌舞伎の「三番叟」『芸能』通巻371(32巻1号)、芸能学会、1990.1
上田設夫『新典社注釈叢書10 梁塵秘抄全注釈』新典社、2001.6
梅原猛・観世清和監修『能を読む一』角川学芸出版、2013所収
梶原正昭校注・訳『新編日本古典文学全集62 義経記』小学館、2000.1
杵屋栄蔵『続長唄のうたひ方』創元社、1932.4
稀音家義丸『長唄囈語』邦楽社、2015.3
久保田淳・馬場あき子編『歌ことば歌枕大事典』角川書店、1999.5
小山弘志・佐藤健一郎校注・訳『新編日本古典文学全集58 謡曲集一』小学館、1997.5
新海立子「小鼓の稽古を通して見た長唄『操り三番叟』の音楽構造」『名古屋音楽大学研究紀要』30、2011.3
西園寺由利『長唄を読む3』小学館スクウェア、2014.9
古井戸秀夫『新版 舞踊手帖』新書館、2000
茂手木潔子「邦楽の三番叟」『芸能』通巻371(32巻1号)、芸能学会、1990.1
守隨憲治編『日本戯曲選』至文堂、1935.4
矢内賢二『明治キワモノ歌舞伎 空飛ぶ五代目菊五郎』白水社、2009.4
聞蔵Ⅱビジュアル(朝日新聞データベース)
ほか



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「長唄の会」トーク 2020.02.23


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